「この会社がインターンを募集しているけど、田中くん、応募してみないか?」
僕は東京の私立大学に通う、情報工学を専攻している大学2年生である。大学生活を気ままに楽しんでいたところ、大学の先生からある企業へのインターンを紹介された。
「インターンですか、僕にはまだ早いですよ、先生。バイトも忙しいし、夏休みの予定も入れちゃってるから、無理ですよぉ。」
「田中くん、アルバイトや遊びの予定もいいけれど、卒業してからのことも少し考えた方がいいんじゃないかな。何より、この会社、面白いし君に合っていると思うけどねぇ。ま、一度だけ会社に遊びに行ってみないかい?」
「僕に合っている、、、ですか。先生がそこまで言うんなら、一度行ってみてもいいですよ。仕方ないなぁ。」
僕はあまり気乗りしなかったが、先生がとても目を輝かせて言うもんだから、ついつい話を受けてしまったのである。
その1週間後、僕は着慣れないスーツに身を包み、エクスウィルパートナーズという会社を訪問した。
「こんにちは、田中と言います。」
「おぉ、待っていたよ、田中くん。先生から話は聞いているよ。どうやらとても優秀なんだってね。一度会ってみたいと思っていたよ。ま、そこに座って座って。」
(うわー、先生、勝手にユウシュウとか言っちゃって、緊張するじゃんかー)
建物の中には30人ほどの人間が雑然と仕事をしていた。目の前の人は、40才くらいだろうか、背の高い男性が、ゆっくり椅子に腰かけている。
「で、田中くん、さっそくだけど、君の夢は何かな?ざっくばらんに教えてくれないか?」
「え?夢ですか・・・。夢と言われても、うーん」
僕は戸惑った。初めて会った40才の人間に、いきなり夢を聞かれるとは思っていなかったからだ。というか、そもそも夢なんてちゃんと考えたことが無い。
「そう、夢だよ夢。人が生きていく上で心のガソリンみたいなものだからね。夢を実現するために人生を生きているんだから、その夢が無いとエンジンの掛からない車みたいなものなんだよね。」
この目の前の男は何を考えているんだろう。インターンの説明を受けにきたはずなのに、なんで夢なんて聞かれているのか、僕にはわからなかった。
「夢ですか、しいていうなら毎日楽しく過ごすことですかね。ちょっと抽象的なんですけど、なんていうか、楽しくないと意味が無いと思います。」
僕は半分苦し紛れに言葉を返した。しかし、自分では何となくしっくりきている気もする。楽しいことが大好きで、決まり決まったことはあまり好きじゃないことは、自分でも何となく気付いていたからだ。
「へぇ、楽しいことが大切なんだね。それって、とっても大切だと思うよ。ワクワクしないと、何事もやっている意味が無いからね。田中くんは、毎日楽しく過ごしていると思うけど、うちの会社では、たぶん今よりも楽しいことができるんじゃないかな。」
と、男性は一枚の名刺を差し出した。
<エクスウィルパートナーズ代表取締役社長>
「え?社長さんだったんですか?」
僕はびっくりした。得体のしれない学生一人に対して、いきなり社長が出てきて夢を聞いてくるなんて、まったく想像していなかったからだ。
「一応、僕が代表をやっているけど、この会社はみんなが主役なんだ。だから、僕はこうして時間を取ることができるんだよ。みんな自律的に動いて、それぞれの夢をかなえるために仕事をしているからね。君にも合っていると思うなぁ。」
こうして、僕は良く分からないまま、インターンに挑戦することとなった。夏休みの間だけ、インターンとして社会経験を積むことは、まぁ悪い経験では無いだろう。
インターンとして会社に顔を出すようになり、はじめに任されたのが、ソフトウェアのプログラミングであった。学校でプログラミングを勉強していたので比較的スムーズに仕事に取り組むことができたが、やはり学校での勉強と実際の仕事は違っている。僕は、社員の方から一つ一つ教わりながら、次第にプログラミングをできるようになっていった。
こうして2カ月が過ぎ、夏休みも終わろうとしていた時に、課長に昼食に誘われた。せっかくなので一緒に昼食に行こうとすると、社長が僕たちを見かけて、
「一緒にメシいこうぜ」
と誘ってくる。
社長と課長、そして僕という3人だけ。意味もなく緊張してしまう。
「田中くん、どう?少しは慣れてきた?」
「はい、社員の皆さんがとても丁寧に教えてくれるので、とても勉強になっています。僕に教えてくれるために時間を使ってくれているのが、ちょっと申し訳ないくらいですよ。」
「何言っているんだ。貴重な人生の時間を使って来てくれているんだから、私たちが全力でそれに答えるのは当たり前じゃないか。だって、人が会社の全ての財産なんだから、人に手を抜いてしまったら、それは会社そのものをダメにしてしまうことになるからね。」
課長は横でウンウン首を縦に振っている。でも僕は、インターン生にこんなことを熱く語る社長を、ちょっと奇妙にも不思議にも思えた。
そうしたことを考えている時に、社長から話しかけられた。
「田中くん、もし君が興味あればだけど、これからもアルバイトとしてうちで働いてみないかい?ま、そんなに高い給料は払えないけどね。アハハハハ。」
課長も横で笑っている。社長は、笑みを浮かべてこう付け加えた。
「もちろん、田中くんの夢を実現する手段として会社を使ってくれるというなら、だけどね。」
会社を手段として使う?どういうことだろうか。僕は思いきって聞いてみた。
「社長、会社を手段として使うというのはどういうことでしょうか?会社はみんなに給料を払っているから、従業員というのは会社に使われるものだと思うのですが・・・。」
僕がこう聞くと、社長は驚いた表情をした。そして、ゆっくりと、しかしはっきりとした口調で僕にこう語りかけたのである。
「田中くん、人生というのは一度しかないんだよ。その貴重な人生を、会社のために使うなんてもったいないと思わないかい?仕事は人生を楽しみ夢をかなえるための手段なんだ。だから、仕事をする場である会社は、従業員のみんなが使い倒すべき存在なんだよ。自分を犠牲にしてまで会社に貢献するというのは、結局誰も幸せにしないからね。」
僕は分かったような分からないような気分だったが、気が付いたら
「分かりました、アルバイトとして宜しくお願いします。」とだけ答えていたのだ。
こうして僕のアルバイト生活が始まった。
アルバイトとして任される仕事は次第に高度になり、大学3年生の秋ごろには、他のアルバイトを取り纏めるリーダー的な役割を担うようになったのである。
僕は、社員の人と二人三脚になり、新しいソフトウェアを開発するプロジェクトをこなすようになった。以前やっていた他のアルバイトも、いつしか辞めてしまい、今では週に5日くらい、会社に行って色々な仕事をしている。
こうして迎えた大学4年生の春、いよいよ就職の時期が訪れてきた。大学で行われる就職ガイダンスなどにも顔を出し、先輩の体験談として、色々な大企業の3年目の社員の話を聞くようになる。しかし、誰ひとりとして夢を語る人はいなかった。むしろ、うちの会社に就職したら、こういったメリットがあるよといったことばかり。
思いきって
夢は何ですか?
と聞いても、
会社で昇進して大きな仕事をすることかな
といった答えが返ってくるのであった。
エクスウィルの社長がいつも言っている「夢を実現するために会社を使いこなす」という発想は、誰も持っていなかったのである。
僕は悩んだ。自分のやりたい夢が、大企業に入って実現できるのだろうか、と。
今の僕の夢、それは自分でこれまでにない新しいことを創り上げて、少しでも世の中の役に立つ仕事をすることである。正直に言うと、これはエクスウィルの経営者や社員のみんながいつも言っていることに大きく影響を受けている。
気が付けば、僕はエクスウィルの考え方に染まっていたのかもしれない。
僕はこうした悩みを正直に社長に打ち明けることにした。
「社長、僕はこれからの人生の方向を迷っています。どの会社に就職すべきか、自分で分からなくなってきました。」
すると、
「田中くん、君のやりたい夢があるだろう。その夢を叶えるという考え方で会社を選ぶべきだと思うよ。会社なんていつ無くなるか分からない。それはどんな大企業でもね。だから、夢を叶えるということを大切にして、会社を選べばいいんじゃないかな。もちろん、田中くんがうちに入りたいと言うのなら、僕たちは大歓迎だけどね。」
社長は、子供のような笑みを浮かべて、僕に真剣に言ってきたのだ。
アルバイトとして働く場所だと思っていた僕は、エクスウィルで働くということを初めて意識した。
そして、本能のままに、
「社長、僕を雇ってください、宜しくお願いします。」
と、伝えていたのである。
そして、大学卒業と同時に、僕はエクスウィルに入社することになった。
「田中くん、君の夢や目標は何かな?」
エクスウィルの新入社員研修では、そのほとんどの時間を“心の研修”に使う。もちろん、働く上で必要な基本知識は少しだけ教えてくれるのであるが、新入社員のほとんどは当社のアルバイト経験者であり、仕事のためのスキル、例えばコンピュータの使い方や資料の作成方法、ソフトウェアの開発方法などは、すでに身についているためだ。
心の研修といっても、そのほとんどは目標設定、そして夢設定である。夢と目標を明確にすることが、仕事をする上で一番大切だということなんだろう。新入社員の中には、面白いことに
「3年でエクスウィルを卒業し、将来は自分の会社を創ります」
と言っている者もいる。しかし、不思議なことに、それが許される雰囲気なのである。
2週間の新入社員研修が終わり、いよいよ部署に配属になる。顔見知りのリーダー社員である鈴木さんが僕の先輩だ。鈴木さんとはアルバイト時代に一緒にいくつもの仕事をしてきたので、お互いの人間性は良く理解しているつもりである。僕は、鈴木さんと一緒の部署でほっとしていた。
「鈴木さん、これからも宜しくお願いします!さて、僕は何をしましょうか?これまでのように、ソフトウェア開発のアルバイトを取りまとめるのが良いでしょうかね。」
以前の鈴木さんは、僕に対して「○○をしておいてね」と具体的な指示をしてくれる、頼もしい先輩であった。
しかし、鈴木さんはこれだけしか言わなかった。
「田中くん、これからも宜しくね!」
以前と違って、具体的な指示を全くしてくれないのである。
そして、すぐにどこかにいってしまった。
初日だからこんなもんだろう、と思っていたのだが、その後、3日たっても何も鈴木さんから指示をもらえない。僕は少しだけ焦ってきた。
「鈴木さん、そろそろ僕に仕事をくれませんか。せっかくやる気になっているのですからね。」
ところが、鈴木さんは、こう言ったのだ。
「田中くん、これからは、自分が何をすべきかを自分で考えないといけないよ。で、何をすべきか決まったら、僕に教えてくれないかな。」
僕は、正直戸惑ってしまった。何をすべきかと言われても、これまでそういった働き方をしてこなかったからだ。僕が戸惑っている様子を見て、鈴木さんは、こう言ってくれた。
「もちろん、僕にできる支援があったらどのようなことでもさせてもらうよ。僕は田中くんの夢を実現するためのサポーターなんだからね。」
僕の夢のサポーター?
確かに、夢は大切だっていつも言っているけど、いきなり夢と言われても、具体的に何をしていいのか分からないのだ。
鈴木さんは、こう付け加えた。
「田中くんの夢を実現するための方法はお手伝いできるけど、田中くんが何をやりたいのか、なぜそれをやりたいのかというのは、僕には決められないし、決める権利は無いからね。新入社員研修を思い出してみて。」
そういえば、新入社員研修では、自分の夢や目標を設定したことを思い出した。僕の夢は、
自分でこれまでにない新しいことを創り上げて、少しでも世の中の役に立つ仕事をすること
だった。なるほど、このために、具体的に何をすればよいかを考えるということか。
少し光明が差してきたような感じである。気分を変えるために外出すると、新緑の気持ちの良い風が、僕の髪をなびかせた。
それから3日間、僕は必死になって何をすべきか、なぜすべきかを考えたのだ。
一人で悶々としていると、隣の部署の3年目の先輩が、話しかけてきた。彼女の名前は山本さん。入社3年目であり、自分のアイデアを形にしている、社内でも評判の才色兼備の女性である。
「田中くん、自分のやりたいことって見つかったかな?もし見つかっていないんだったら、私いつでも相談に乗るからね。遠慮なく何でも聞いてね。」
「山本さん、ありがとうございます。正直、僕の夢は漠然としていて、具体的に何をすればよいかが分からないんですよ。」
「なるほどねー、確かに田中くんの夢は漠然としているかもしれないわね。だったら、たくさんやりたいことを紙に書いてみたらどうかしら。文字になると、少しずつ具体的になってくると思うわよ。」
そう言って、山本さんは自分の部署に戻っていった。わざわざ僕にアドバイスをするために、隣の部署から来てくれたんだ。
山本さんの残り香りに心を奪われつつも、さっそく、僕は紙と鉛筆を使って自分のやりたいことをたくさん書き出してみた。すると、山本さんの言う通り、だんだんと自分のやりたいことが具体的になってきたのである。
僕は嬉しくなって、考えを資料にまとめて鈴木さんに相談しにいった。僕の提案する内容は、起業家向けシステムである。
「鈴木さん、僕はこういうことがしたいのですが、どう思いますか?」
「田中くん、、、いいんじゃないかな!細かいところは色々とあるけれども、こうしたことを実現すると、世の中がびっくりすると思うよ。」
鈴木さんは、心から楽しそうに、こう言ったのだ。そして、
「さて、田中くん、自分のやりたいことが見つかったら、さっそく僕の仕事を手伝ってほしい。その代わりに、僕も田中くんの仕事も手伝うよ。何でも言ってくれよ、な。」
その時に鈴木さんから教えてもらったのは、エクスウィルの新入社員への対応方針である。
新入社員は自分のやりたいことが見つかるまで、仕事をさせてもらえないとのことであった。自分のやりたいことを見つけ、それに対しての支援が必要だと気付いた時に、初めて人の仕事も心から手伝えるようになる。それに気付くまでは、決して仕事を与えるということはしないのであった。
こうした新入社員に対する接し方によって、社員の自立性が育まれ、その後の成長速度に大きく影響してくるのである。
その翌日から、鈴木さんの仕事を70%の時間で手伝い、僕自身のやりたいことは30%の時間を費やすことになった。こうして、各自が独立したビジネスアイデアを持ちつつも、そのアイデアを相互に助け合うという風土が、エクスウィルには根付いている。
はじめから仕事を与えられると、こうはいかないだろうな、と僕は思う。仕事のありがたさ、仲間のサポートのありがたさ、これらを感じることができるのは、エクスウィルのみんなが同じ考え方を共有しているからだろう。
こうして、僕は鈴木さんの仕事を手伝いつつ、自分のやりたいビジネスも育てることになった。色々な試行錯誤があったが、はじめに自分の夢や目標を明確にしたことで、自分のエンジンに火がともり、無事にビジネスが立ち上がりはじめたのだ。
こうして、2年間はあっという間に過ぎていった。
入社してから3年弱が経過したある日のこと、僕は自分の立ち上げた起業家向けシステムの拡大に邁進していた。まだ小さな規模であるが、徐々に市場認知度が高まり始めている。そのため、会社の中でも一つの柱に成長する可能性があるとの判断から、今では自分のビジネスに80%の時間を使っている。もちろん、残り20%の時間は、仲間へのサポートに費やしている。そうした時に、一本の電話が入ってきた。運用サポートを担当してくれているアルバイトの学生からである。
「田中さん、大変です、10名のお客様から同時に、システムが利用できない旨の連絡が入りました。お客様は、とても困っている様子です。至急、対応策を検討する必要がありそうです。」
僕は、すぐにまずい!と思った。
僕の作ったシステムは、起業家を支援するためのシステムである。起業家がビジネスを行う上で、必要不可欠のものになりつつある。ということは、このシステムが止まってしまうと、起業家の皆様に多大な影響が出てしまうのだ。
僕はさっそく、システムを利用できないお客様に対して、連絡をとった。
「多大なご迷惑をおかけして申し訳ありません。当社のシステムが使えない状況になっていること、心よりお詫びいたします。すぐに対応策を検討します。システムが復旧するまで、私たちは御社の代わりに手作業で業務を代行させていただきます。」
エクスウィルでは、何らかシステムに問題があった時に、コストが掛かっても、お客様への影響を最小限に抑えるという文化がある。それが、お客様の信頼を勝ち取るために大切なことだと考えているからだ。
しかし、僕は内心、とても焦っていた。システムが復旧するまで、会社としては莫大なコストを負担することになる。この負担が大きくなると、会社に多大な迷惑を掛けてしまうのは目に見えていた。
僕はすぐに原因究明に乗り出した。
しかし、いくら原因を探しても、僕には全く見当がつかなかった。なぜ、システムが止まってしまったのであろうか。
そうして困っていると、僕の先輩である鈴木さんから突如、電話が掛かってきた。
「田中くん、聞いたよ、大変なことになっているそうじゃないか。取り急ぎ、僕の方で業務代行してくれるメンバーを集めておいたよ。業務を手作業で代行するのは任せてくれ。君は原因究明に全力を尽くしてほしい。」
僕は、涙が出そうになった。鈴木さんは、いつも僕のことを気に掛けてくれて、何かあるたびにすぐに問題に気がついて、積極的に支援してくれるのである。今回は、これまでに無い初めての大きなトラブルである。そうした時に、全面的にサポートしてくれる鈴木さんの存在は、とてもありがたかったのだ。
そうして原因を究明している時に、今度は社長から電話があった。
「田中くん、トラブルが発生しているようだね。心配はいらない、責任は全て僕が取るから、田中くんはお客様のことだけを考えて、対応して欲しい。僕の方でもいくつか心当たりがあるから、当たってみることにするよ。頑張ろう。」
普段は個別のビジネスプロジェクトには深く立ち入らない社長だが、実はそれぞれのプロジェクトに対して色々な情報を収集し、問題になりそうなことを常に分析していたのだ。
僕はシステムを一緒に開発してくれたパートナー企業に連絡を取ることにした。パートナー企業とは、すでに保守契約が切れていた。しかし、このパートナー企業は、
「分かりました、いつもお世話になっている田中さんが困っているのですね、大至急、駆けつけます。」
と言って、技術者を2名も派遣してくれたのである。
普段から、パートナー企業とは、まず先に相手に与える、そしてその後に与えられる、という考え方で仕事をしている。そのため、何かトラブルがあった時には、契約などの枠を超えて、相互に助け合っているのだ。
「こんにちは!大丈夫ですか?僕たちにできることがあれば、何でも言ってください。田中さんを助けるように、とだけ言われて駆けつけてきました!」
こう言ってくれるパートナー企業の技術者は、会社は違えど本当に想いを共有できる仲間である。
ここから大至急での原因究明が始まった。問題のありそうな箇所をしらみつぶしに分析し、問題発生からおよそ10時間後には不具合の個所を特定できたのである。
原因は、お客様の利用しているパソコンの設定が、当社の推奨環境ではない設定になっているためであった。
これは、通常の会社の場合、当社の推奨環境では無いため、対応できかねます。と言って終わりにしてしまうだろう。つまり、あなたが悪いんだから、当社には責任はありませんということである。
しかし、僕は社長にこう報告した。
「社長、ご利用者様のパソコンの設定が、どうも推奨環境では無いようです。しかし、この推奨環境に対応できていない当社が悪いと思います。お客様にはお詫びをするとともに、何らかの補償をしたいのですが、如何でしょうか。」
「田中くん、よくぞ問題を発見したね。また、そうしたお客様第一の心持はとても大切だと思うよ。分かった、お客様に田中くんの思う通りに対応してくれ。責任者の田中くんが決めることだからね。」
問題を発見したら、その対応も全力だ。システムの修正、そしてお客様への連絡。これを迅速にすることが、お客様からの信頼獲得に繋がるのである。
また、システムの不具合でご迷惑を掛けてしまったお客様に対しては、月額利用料を3カ月間無料とさせていただくこと、またお詫びの手紙を直筆で書くようにした。少しでも誠意が伝われば嬉しいとの一念である。
こうした対応によって、トラブルは無事に解決した。今回の対応の結果としては、トラブルの発生した10社ともに、契約を破棄することは無かったのである。僕は、心からほっとした。
後日、トラブルのあったお客様から一通のメールが届いた。
田中さま
この度は、私たちに問題があったにも関わらず、誠意ある対応をしていただき、本当にありがとうございました。
システムが利用できなくて非常に困っていましたが、契約形態に縛られず、私たちの困っている点に対して真摯に対応していただいた姿に感動しています。
是非とも、これからも貴社のシステムを使い続けたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いします。
短いメールであったが、これは僕の心にジーンと響いた。システムというと、どうしても人間味の薄れてしまいがちだ。しかし、こうして真摯に対応することで、お客様の心に伝わるものがあることを、改めて再確認できたのが、本当にうれしい。ちなみに、どうやら社長もこのメールを見て、少し涙ぐんでいたようである。涙もろい社長だ。
こうして、僕の立ち上げたビジネスでの初めての大規模トラブルは収束に向かったのである。
僕はこのトラブル対応で、多くのことを学んだ。一番の気付きは、トラブルこそがお客様と関係性を深めるチャンスであり、その対応次第でビジネスの成功は大きく左右されるということである。これは、頭で理解しているだけではなく、実際に体験することでしか学ぶことはできないかもしれない。
こうしてビジネスをさらに軌道に乗せ、会社としても満足のいく成果を生み出し始めていたのだ。同期入社のメンバーも、みんなそれぞれのビジネスを立ち上げて、楽しく仕事をしている様子である。
そうした時に、ある日、社長から昼飯に誘われた。
「田中くん、最近楽しく仕事をしているようだけど、入社の時に立てた目標や夢に近づいているかな?」
「はい、入社の時に立てた3年以内に、これまでに無い自分のビジネスを立ち上げる、という目標は、徐々に達成できていると思います。まだまだこれからですが、本当に毎日が楽しく、世界を変える第一歩を踏み出している実感がありますよ。」
「そうか、それは良かった。さて、田中くん、君は今回のトラブルで、一つの失敗を経験したよね。会社としては、大きな損害だったんだからね。」
僕は少しドキっとした。いくらお客様に原因があったとはいえ、また会社の方針でコストを顧みずに対応したとはいえ、会社に損害を与えたのは事実だからだ。社長も内心では残念に思っているに違いない。
ここは素直に謝っておこう。
「社長、そうですね、確かに会社に対してご迷惑を掛けたことは事実です。僕の詰めの甘さが出てしまっているのかもしれません。申し訳ありません。」
「ところで、田中くん、君に一つ伝えておかなければいけないことがあるんだ。」
「社長、なんでしょう。」
僕は、罰として、ボーナスカットを覚悟した。昼食のお店は込む時間にもかかわらず、今日は意外に閑散としている。
「君には、来月、つまり新年度から昇格して、リーダー職を務めてほしい。エクスウィルでは、挑戦して失敗した人間を評価することにしている。君は今回のことで、一回りも二回りも成長したはずだ。だから、その経験を持って、これから後輩の指導に当たってほしいと思っている。そのためのリーダー職だよ。おめでとう。」
え?失敗したのに昇格する?
僕は一瞬混乱した。何らかの罰があるのかもしれないと、緊張していたからだ。
「社長、しかし会社に損害を与えたのは事実です。それで昇格するというのは聞いたことがありません。」
社長は言う。
「田中くん、会社の一番の資産は何だったか覚えているかな?お金かな?それとも製品やサービス?違うよね、一番大切なのは人なんだよ。君は今回の件で、会社にとって無くてはならない存在になった。確かにお金の面からは会社に損害を与えたかもしれない。しかし、成長といった面で考えると、会社にとっては大きなプラスだったんだ。今回の君の対応は見事だった。僕が対応しても、同じような対応をしていたと思うよ。だから、田中くんにこれからも活躍して欲しいし、活躍してくれると信じている。是非とも、来月からリーダー職として頑張ってほしい。」
僕は何だかとても嬉しくなった。自分が昇進したことよりも、会社の考え方や風土に、心から感謝したいと思う。そして、トラブル対応で支援してくれた同僚や先輩、社長、パートナー企業の全てに、ありがとうと言いたい。
「社長、来月から頑張ります!」
社長と2人だけの昼食を終えて席に戻ると、何と席にはたくさんの仲間がいた。鈴木さん、山本さん、同期入社の仲間、パートナー企業の仲間。
「田中くん、昇進おめでとう!同期で一番出世じゃないか!」
「田中!やるなー。俺もホントに嬉しいよ。でも、お前には負けないぞ。」
「田中さん、本当におめでとうございます。私たちも我が事のように嬉しいです。」
僕は感動のあまり、涙が止まらなくなってしまった。こうした仲間とともに仕事に挑戦し、一緒になって喜びを分かち合える人がいる。とても幸せな会社だと、改めて感じることができた。
「みんな、本当にありがとう!これからも頑張ります!」
僕の涙の向こう側では、社長も涙ぐんでいたように見えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして月が変わり、僕はリーダー職として仕事に取り組むようになった。これまで通り、自分のビジネスについて全力で取り組むと共に、後輩の育成にも責任を持つようになったのである。
ちょうど今月から、新しく新入社員が入ってきて、会社はさらに元気いっぱいだ。新入社員が研修を終えて僕の下に配属になった。
新しく入ってきた仲間たちにも、感動できる仕事を経験してもらいたい。
僕はそう心に誓ったのである。
「田中さん、僕は何をすれば良いですか?指示をください。」
と、新入社員から質問があった。
2年前の風景が、デジャブのように蘇る。まるで自分自身を見ているようだ。
僕は、ニヤリとしながら、こう言った。
「君の夢や目標は何かな?」
新入社員の困った視線を背中に受けながら、僕は颯爽と外に駆け出していったのであった。